ゴリラ射殺事件の取材を受けて感じた、テレビ報道の問題点(2)

ゴリラ射殺事件の取材を受けて感じた、テレビ報道の問題点(1) では 、 シンシナティ動物園のゴリラが射殺された事件に関して に関して私がある報道番組から受けた電話とメールによる取材の顛末を記しました。今回は、私への取材が打ち切られてから番組放送までを振り返ります。そして、一連の出来事から私が感じたテレビ報道の問題点を記します。

私への取材が打ち切られた翌日、私もよく知る、動物園のエンリッチメントを専門とする研究者が、Facebookの友達限定公開ポストで、この件に関する取材を受けたことを明かしました。彼女は私と一部見解が異なり、幼児を引きずったのはディスプレイだとコメントしたそうです。つまり、私が肯定することを渋った2点の一つを肯定したのです。

私は早速彼女に連絡をとり、相互に情報交換しました。彼女に取材の依頼が入ったのは私への取材が打ち切られた直後だったこと、担当者は違う人だったこと、その担当者は「他の専門家には断られた」と言ったことなどがわかりました。彼女は初めから誘導尋問的な質問があったと感じており、自分のコメントの扱いに不安を感じていましたが、私の話を聞いてさらに不安が増したようでした。

さて、実際の放送はどうだったか。私が予想した通り、 「ゴリラは騒ぐ観客を威嚇するために幼児を引きずるディスプレイをしたのだ。悪いのは観客だ。」というストーリー が展開されていました。私が肯定しなかったもう一つのポイントはアメリカ人の研究者がコメントをしており、知人のコメントと合わせてそのストーリーが構築されていました。

ただ、私が事前に想像していたよりは淡々とした報道で、私には"許容範囲"にも思われました。それに全体として、私がコメントした内容をほぼ押さえた内容になっていました。その意味では、取材された甲斐があったと思います。一方、知人の方は、気をつけていたのに発言の一部だけを切り取られて使われたことを残念がっていました。

放送後、私に取材してきた方から丁寧なお礼のメールをいただきました。テレビの取材で事後にお礼を言われたことなど初めてだったので驚きました。番組は不本意でしたが、この方ならばまた取材を受けてもいいかなと思いました。

さて、知人と情報交換したおかげで、報道番組の作り方の一端を垣間見ることができました。私と知人への取材は並行して行われてはいませんでした。彼らは複数の情報源に当たって多角的に論じることはせず、自分たちの作ったストーリーに沿ったコメントをする人を探してピックアップするというやり方をやっていました。そして、そのストーリーはどうやら「上」の人が決めているようでした。

もちろん、報道の自由があります。マスコミ報道が「専門家」の言うなりになってしまうと、別の問題が発生します。彼らが取材に基づき主体的に考えたことを報道するのは正しい姿勢です。

問題なのは、彼らが 自分たちの見解を「専門家」の口から語らせる ところです。そして、 自分たちの見解に沿わない「専門家」を排除する ところです。

知人と私とは、ゴリラが幼児を引きずったのが通常のディスプレイの延長として理解できるか、という点で意見を異にしました。それは当然起こりうることです。私は自分の見解のほうが妥当だと考えていますが、それは知人も同じです。それなのに両論併記をせず、相容れない二つの見解の判定をしたのが、実は専門家でもなんでもない、番組制作の「上」の人だというのは、どうでしょう?バラエティ番組ならばより「面白い」ほうを採用するのもありかもしれませんが、報道の姿勢として間違っていると思います。さらに、その見解の責任を専門家に負わせるのもおかしいです。

しかし、私はもう一つ、もっと根深い問題に気づきました。それは、 テレビ報道が「取材でわかったこと」ではなく「取材ではわからなかったこと」で勝負している ことです。そして、 「専門家の見解」をあたかもエビデンスのように扱い、視聴者に事実と意見を混同させようとしている ことです。

知人と私とでは、多くの部分で見解が一致しています。そして、それは事件後に世界の類人猿研究者たちがSNS等で表明した見解ともほぼ一致しています。しかし、番組制作者はその一致した部分だけでは満足しないようでした。

実は、ゴリラが幼児を引きずったことに関しても知人と私の見解は一致しているのです。それは、 断言するには情報が足りない、もしくは本当のことはわかりようがない ということです。テレビ報道は、なぜそんな不確かなところに無理やり白黒をつけようとするのでしょうか?私は次のように考えます。

活字メディアと違い、テレビ報道では速報性が求められます。しかし同時に、視聴率競争の中で、番組の独自性も求められます。多くの報道番組が「真相」「深層」「特ダネ」「深読み」などと冠して、旬の話題を独自の視点で伝えようとしのぎを削っています。

だから明白な真実だけを扱っていては独自性を発揮できない。さりとて、報道の看板がある以上、奇をてらって専門家が一笑にふすような珍説をでっち上げるわけにもゆかない。そこで「わからないこと」に着目し、「番組独自の切り口」を作り上げる。(私に取材した方の表現を使うなら「方向性」となります。)「わからないこと」であれば、たとえその切り口に同意しない専門家がいても、報道は間違いだとは言えない。そこを狙ってくるのです。

本来、わからないときにすべきことは、追加の証拠を集めることです。ところが速報性が求められるので丹念な取材ができない。そこで専門家の出番です。専門家のコメントは、あくまでその人の見解、意見です。それなのに、いくつもの見解の中から都合のいいものだけをピックアップし、それを断片的な事実とつなげて並べる。すると、視聴者にはあたかもそれが仮説の証拠となる事実であるかのように見えてしまうのです。

テレビ報道がこのように作られているのだとしたら、彼らが真相だ、特ダネだ、深読みだと強調するまさにその部分こそが、もっとも真相から遠く、一番のガセネタで、もっとも浅い分析だということになってしまいます。そして、専門家がどんなに真摯にコメントしても、あるいはコメントすればするほど、その傾向が強まっていくことになります。それでは、ダメだと思います。

シンシナティ動物園のゴリラ射殺事件についていえば、当該のゴリラが普段どのようなディスプレイをしていたか、を調べたらよかったのです。彼が普段は枝を引きずることがほとんどなかったのなら、私の見解の確からしさが増します。逆に普段からよく枝引きずりをしていたのなら、知人の見解に軍配があがるでしょう。

と、ここまで考えて、取材を受けた段階でそうアドバイスをすればよかったと気づきました。それを知ることができれば、この事件に関する私自身の理解が深まったはずです。私には当該の動物園とのチャンネルがなかったので、彼らにやってもらえばよかった。私は私で、自分の見解を守ることに拘泥しすぎていたのかもしれません。反省し、今後に活かそうと思います。

(終わり)

竹ノ下祐二
竹ノ下祐二
理学療法学科 教授

専門分野:人類学・霊長類学、生物多様性保全学、子ども学

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